「ヨハンクライフ」岩手日報No.356
2016年4月3日
サッカー王国オランダの基礎を築いた選手の一人が3月24日に68歳で亡くなった。外国に行けば、特に南米では、オランダに住んでいると言うと「ああヨハン・クライフ(の国)ね」という反応をよく聞いたものだ。
その割にはオランダメディアの死去の扱いが思ったよりも地味だった。ある新聞の読者欄には「クライフの特集を組むくらいなら講読料を返せ」と言うコメントも出ていたりして少々びっくりした。彼が晩年を暮らしたスペイン・バルセロナでは涙ぐみながらテレビインタビューに答える地元の人がいたりと、町中で悲しんでいる雰囲気が伝わってきたのとは対照的に思えた。
クライフ氏はアムステルダムの貧しいユダヤ人家庭に生まれた。父親が地元クラブ・アヤックスに青果物を卸していたことからサッカー場に出入りするようになるが12歳の時にその父親が亡くなり、母親がこのサッカー場の清掃員として生計を立てることで家族を養った。
きちんと学校に通ったことがないせいかもしれないが、彼のオランダ語が間違いだらけだとか、「ボールを蹴らないとゴールはできない」などのヨハン語録が出版されたりと、いつもオランダメディアにもてあそばれていた感は拭えない。
だが1974年のワールドカップ(W杯)で決勝に進むまではサッカー二流国だったオランダを世界のひのき舞台に連れていった功労者だし、スペインのフランコ独裁政権直後にそのシンボルだったクラブ・レアルマドリードをこてんぱんにやっつけて、バルセロナ市民の鬱憤(うっぷん)を晴らしてくれたのも彼だ。私が昨年5月にバルセロナのスタジアムを訪ねた際、きちんと飾られていたクライフ氏の功績を子どもたちと見入ったことを思い出す。
選手だけではなくコーチとしての業績も見事だったし、自分の財団を設立してマイナーだった女子サッカーの普及や途上国のタレント育成も地味に続けていた。米国だったらアメリカンドリームの典型的なスポーツ選手としてきっと名をはせていたに違いない。
でもオランダなのである。いつも斜めから構えて成功者をねたみがち。もしかしたら、オランダという質実剛健な社会が住みづらくなったのかもしれない。いつも彼は異端児で、自分と意見が合わない人は、クラブの社長だろうと代表チームのコーチだろうと批判していたこともあって、オランダ人の中には彼を非難する人も多かった。たばこも試合であろうと練習であろうと吸い続け、その意味では常識に捉われない生涯アウトサイダーだったのかもしれない。
そういうクライフ氏の業績を自国のメディアが素直に認めないでいることが、ある意味でコミカルに見える。でも本当のサッカーファンは知っている。どれだけ彼が偉大なサッカー選手とコーチだったかを。合掌。
