現場読み「玄奘三蔵、シルクロードを行く」
2025年6月6日

キルギスの日本センターには中央アジア関係の本が結構置いてあり、いつも気になっていました。今回の滞在中に、ふとタイトルに惹かれて手に取ったのが、岩波新書の「玄奘三蔵、シルクロードを行く」です。著者の前田耕作氏は、名古屋大学アフガニスタン学術調査団の一員として、大きな石仏で有名なバーミヤンを訪問以来、西・中央・南アジアの古代遺跡調査をしてきた研究者で、私も今回初めて知った方です。日本の聖徳太子が亡くなって(西暦622年:推古三十年)間もないだった頃の627年に、唐の都である長安を玄奘三蔵は出発し、シルクロードをひたすら西へ向かい、628年には天山山脈のペダル峠(4284m)を越えて、現在のキルギス共和国に入っているのです。
この峠を越えてから、キルギス東部のイシククリ湖北岸を通り西へ進み、峡谷を下り、その後チュイ州に入り、どうやらブハラ遺跡にも立ち寄ったようなのです。それから、現在の首都ビシュケクを通り過ぎ、ウズベキスタンのサマルカンドに向かって進んでいます。そこから南下して、タジキスタンとアフガニスタン国境を流れるパミール高原に源流を持つアムダリヤ河を渡渉して、峠を幾つか越えて、バーミヤンに入ったのが、629年。長安から2年越しで徒歩と乗馬により到着したのでした。
時代は流れ、2001年3月12日、つまりニューヨーク貿易ビル等破壊される半年前に、稀に見る大仏がタリバンによって破壊されることになったのですが、この大仏を玄奘三蔵が見ているのです。その後、東に向かい、カイバル峠やガンダーラ、カシミールを経て、再び長安に戻ったのは、17年後の西暦645年というのですから、凡そ17年に及ぶ仏教の起源を巡る旅を行ったことになります。壮絶な冒険を終え無事戻った時には、既に46歳になっており、持ち帰った仏像や経典は、馬20頭の背を借りなければならないほど膨大な量だったとのこと。玄奘法師とその弟子により創始された法相宗の基本と土台となった経典です。実に1338巻に及ぶ仏典を亡くなるまでの約18年間に翻訳し続けたというから並みの根性ではありません。また、存命中に、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなっています。ちなみに、テレビの西遊記では、三蔵法師が女性(今は亡き夏目雅子)として描かれていましたが、実存したのは男性です。そんなことを今更ながら知った次第です。

(オランダ通信 2016年11月号 *2016月11月30日発行から)
出版情報:岩波新書 (2010)
https://www.amazon.co.jp/玄奘三蔵、シルクロードを行く-岩波新書-前田-耕作/dp/4004312434